2024年西念寺報恩講 法話 海法龍氏(横須賀市長願寺)

「真宗」の意味

「願い」を聞くということは、人間の「根本」や「本来」ということをお聞きすることです。人間の「根本」をインドの言葉で「ダルマ」と言います。「ダルマ」というのは、辞書的な意味で言えば、「本質」ですね。私たちの「本質」。人間とは何かということです。私とは何かということですね。私たちは人間の「本質」を失っているから定まらないんだ。私たちが人間の「本質」に触れていくこと、人間の「本質」を回復していくこと、それが自分の人生が本当に定まっていくことなんです。私たちの土台ですね。何を立ち位置にして生きているかということです。土台です。土台のことを「」と言います。

「真宗」の「宗」は拠り所ということです。親鸞聖人は「法」を拠り所にした。「法」を伝えている「南無阿弥陀仏<本願の名号>」を拠り所としたんだというわけです。それをお聞きして、人間の本質、私の本質、私とは何かということ、私の在り方ということが知らされてきます。土台のことを、「根本」とか「本来」とか言いますけれども、別の言葉で、それを「真実」と言います。真実を「宗(よりどころ)」とする。だから「真宗」と言うんです。

人間の根本 = 「一人ひとりが尊い」

東京教区の真宗会館から発行されている『サンガ』という冊子にジャーナリストの堀潤さんがパレスチナのガザ地区を取材した投稿記事があります。その記事の終わりに「私は生き地獄の毎日を過ごしています。しかし、壁の向こうはもっと酷い地獄。これは政治の問題ではない。人道の問題なのです。どうか全ての人の命を守って欲しい」という被災者の声が掲載されていました。全ての人の〝いのち〞が守られていくということが「人の道」です。人間にとって一番のベースにならなきゃならないことですね。

「南無阿弥陀仏」を形にしたものが阿弥陀さんです。この阿弥陀さんのことを「本尊」と言います。この姿が何を表しているのか。人間にとっての「根本」「本来」というのは、「尊い」ということ。「一人ひとりが尊いんだ」というわけです。一人ひとりが守られて、一人ひとりが尊重されるために、政治があって、教育があって、医療があって、経済活動があるんじゃないですかね。一人ひとりのためにあるわけですよ。そのことが、目先の利害の中で見えなくなってしまっているのが、今の私たちの姿だということじゃないでしょうか。

「知る」とは「体感」すること

経の言葉というのは、親鸞聖人の言葉もそうなんですけれども、大きいんですよ。「真宗」とか、「正定業」とか、「法」とかね。だから、自分とそんなに関係がない、向こうの言葉に聞こえるわけです。だけど、そういう言葉を誰に語っているかと言うと、それは、一人ひとりに語っているんですよ。一人ひとりに願いを掛けていらっしゃるわけです。一人ひとりが聞いて、知らしめられてほしいという願いがあるんです。

「知る」ということは、勉強して覚えて「知る」という意味じゃないんです。言葉を通して、頭じゃなくて、体で感じる。だから、「仏さんの教えというのは、毛穴から入る」って昔の人は言いました。「頭じゃなくて、見えない毛穴なんだ」とおっしゃった。体感ですね。感ずるんです。それを、善導さんは「感成」とおっしゃった。感じたことが「成就」するんですね。そういう言い方をしてらっしゃいます。「知る」ということは、知識、教養じゃなくてね、「ああ、そうだったのか」って、体で感ずること。体で知らしめられたもの。そういう意味を持つんですね。(完)