親鸞聖人のゆかりの地を訪ねて

信州善光寺・逗留の足跡を訪ねて

文・撮影 M.K.

善光寺山門


親鸞聖人は1207(承元元)年春、「承元の法難」により、越後の国府(新潟県上越市)にとなった。流罪後の聖人は、「僧にあらず俗にあらず」(非僧非俗)」としてと称し、大雪の降る厳しいこの土地に生きぬく人々とともに暮らす日々であった。(『親鸞 生涯と教え』より)。4年後1211(建暦元)年に流罪が許されたが、聖人はおおよそ2年にわたってそのまま越後にとどまった後、関東に向かった。その途中、参拝し百日間逗留されたという善光寺に、その足跡を訪ねた。圏央道・幸手インターを西に向かい関越道を経て上信越道の長野インターで降りると約30分で到着した。

善光寺は、秘仏の阿弥陀如来の由来や、だれが長野の地に創建したのかなど、現在になっても多くの謎に包まれている。始まりは今から約1400年前の644(皇極天皇3)年と言われているが、『善光寺縁起(善光寺御開帳公式ハンドブック)』には、以下のように要約されている。

善光寺とは

善光寺境内にある親鸞聖人像

信州善光寺は、一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)をご本尊として、創建以来約千四百年の長きにわたり、阿弥陀如来様との血縁の場として、また民衆の心の拠り所として深く広い信仰を得ております。当寺は特定の宗派に属さない無宗派の寺であり、全ての人々を受け入れる寺として全国にしられていますが、現在その護持運営は大勧進を本坊とする天台宗と、大本願を本坊とする浄土宗の両派によっておこなわれています。御本尊の一光阿弥陀如来とは一つの後背の中に三尊(中央に阿弥陀如来、両脇に観世音菩薩、勢至菩薩)が配置された様式で「善光寺式阿弥陀三尊像」とも呼ばれています。

善光寺の成り立ち

『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来像は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、552(欽明天皇13)年、仏教伝来の祈りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像と言われております。この仏像は、仏教という新しい宗教を受け入れるか否かを巡る崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。その後、信濃国国司の従者として都に上った本田義幸が信濃の国へお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に642(皇極天皇元)年現在の地に遷座されました。644(皇極天皇3)年には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って、「善光寺」と名付けられました、とある。

善光寺に残された親鸞聖人の足跡

信州善光寺のご案内を頂き、それを見ながら仁王門を目指して親鸞聖人の足跡をたどってみた。

足跡その1

仁王門の手前右前に常照坊がある。聖人がそこに滞在したという「建暦二年三月 常照坊に百日逗留 親鸞聖人御旧跡」との説明書きがある。

常照坊

足跡その2

更に、山門を過ぎて本堂前の左側には、大きな親鸞聖人像がある。説明書きには、「鎌倉時代、浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、越後から東国への旅の途中で、善光寺に参詣され、善光寺如来さまの御前に檜(→松)の枝を供えられたと言われています。この故事にちなみ、本堂外陣に置かれている人大きな華瓶には、「親鸞聖人お花松」と呼ばれる松の若木が今も欠かさず供えられています」、と記されている。

足跡その3

本堂の正面をのぼって外陣にはいると、賓頭盧尊者像(病人が自分と同じ患部をなでると治るという信仰があるという)の左に一本の松「親鸞聖人お花松」が供えられている。聖人は善光寺に逗留された折り、善光寺本尊に松の木を奉納された。松は常緑樹なので、一年中ご本尊をお祀りしたいとの思いが込められているのでしょう(親鸞聖人 史跡伝説伝承より)、とある。

足跡その4

「爪彫如来像」のお堂

親鸞聖人像の少し奥には、聖人が逗留された折に彫られたと伝わる「阿弥陀如来」が安置されているお堂がある。「爪彫如来像」と言われ、説明書きには、「浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、越後から東国への旅の途中、善光寺に百日間逗留されたと伝わっています。この阿弥陀如来像は、聖人が逗留中爪でほられたものといわれ、特に眼病を治してくださる仏さまとして篤く信仰されています」、とある。

爪彫如来像

以上、頂いた案内を参考にして足跡を訪ねてみた。過去何回か観光で善光寺を参拝したことがあったが、今回は親鸞聖人の足跡をたどることを主眼とした。善光寺の本堂前には、「親鸞聖人像」がそびえ、外陣には、今尚、聖人の思いを繋ぐ「お花松」が供えられていることなど、親鸞聖人と善光寺とには、いくつもの深いご縁があることを知り感銘を受けた。善光寺での百日に及ぶ滞在後、新たな地、関東に向かった聖人の思いがいかばかりのものであったのかなどと脳裏をよぎった。