鹿児島の隠れ念仏の遺構を訪ねて

立山かくれ念仏洞(知覧)の見学

2024年9月、住職をはじめ有志にて鹿児島を訪れました。ご門徒の石崎義弘氏の個展の鑑賞(別記事)とあわせ、薩摩の「隠れ念仏」の遺構を訪ね、学びを深めることができました。

桜島

鹿児島が薩摩藩だった江戸時代、浄土真宗の信仰は禁止されていました。しかし、人々は300年もの間、弾圧に屈せず、家では仏壇を隠し置き、外では洞窟などに集まって密かに念仏の信仰を続けました。今回、鹿児島市「本覚寺ほんがくじ」のご住職、寺本是精てらもとぜしょう様に南九州市の知覧ちらん(戦争中、特攻の出撃基地があった所です)と鹿児島市内の東本願寺別院にてご案内、お話しをいただきました。

まず、寺本氏に知覧にて、人々が集まって信仰を深めた「立山かくれ念仏洞」をご案内いただきました。町並みから車を走らせた、人けのない山の竹林の中に、そのガマ(薩摩弁で横に掘られたほら穴のこと)はありました。すぐ隣に神社があり、神社詣でのふりをして、信者が集まったとのことでした。

身をかがめてやっと入れるくらいの小さな入口、実際に入ってみると中は昼間でも真っ暗です。

入口をふり返る

一番奥の横穴の中に、小さなご本尊が安置されていました。目を閉じると、地の底から人々の念仏の声が響いてくるような錯覚にとらわれました。この狭い洞窟の中で、肩を寄せ合って手を合わせ、ご念仏を唱えた人々に想いを馳せました。

御本尊
ガマの内部。前週の台風でライトが故障しており携帯の明かりで見学しました

旧薩摩藩領内には、同じような隠れ念仏のゆかりの地がたくさんあるそうです。

見学後、鹿児島市内の東本願寺別院にて「薩摩の隠れ念仏」の話を詳しくお聞きしました。(概略を下にまとめました)。

街のどこからも壮大な桜島を見渡せる、風光明媚なこの鹿児島で、今はそんな悲しい出来事を想像することもできません。

弾圧を受けても信仰を捨てなかった薩摩の人たちから、「今、あなたは本当に信仰に生きていますか」と問われているような気持ちになりました。(O.T.)

薩摩隠れ念仏について

江戸時代、薩摩を治めていた島津氏は、一貫して「一向宗(浄土真宗)」を禁止しました。1597年島津氏が秀吉の命により朝鮮侵略に出かける折「一向宗は用心するように」と書き残しており、1609年には浄土真宗が禁止されました。その後、約300年近くにわたる薩摩藩の浄土真宗弾圧の歴史が始まりました。特に1835年から幕末にかけて取締が強化され、罪人として刑を受けた人は14万人にも及びました。

弾圧の理由は諸説ありますが、「阿弥陀様の前にはすべて尊い」という親鸞聖人の念仏による開放思想が当時の封建体制に合わなかった等の理由が考えられています。

薩摩藩の多くの信者たちは、かくれ念仏(門徒)として、地下に潜まざるを得ませんでした。

家では、柱に穴を掘って見えないようにして小さなご本尊を安置したり、タンスの中に小さな仏壇を仕込んだりしました。また、人けのない洞穴に集まって密かに念仏を唱え信仰を深めました。信心で結ばれた多くの「念仏こう」の繋がりは強く、隠れた信仰は続きました。信者は発覚すると、流罪、はりつけによる斬首、身分の剥奪や降格、信者やこうの摘発のための拷問など、厳しい刑にかけられました。

東本願寺鹿児島別院

明治9年(1876年)、「信仰自由」の布達によってようやく弾圧は終わり、開教と同時に鹿児島市内に西本願寺、東本願寺の別院が創建され、次々と真宗寺院が建立されていきました。禁制の間も念仏の信心を捨てなかった人々がいたからこそ、真宗寺院の建立が進み、弾圧に屈せず信仰を続けた人々の歴史は今も語り継がれているのです。