親鸞聖人のゆかりの地を訪ねて ー 板敷山の法難 山伏弁円(茨城県石岡市) ー

文・撮影 M.K.

大覚寺本堂を望む

「親鸞聖人 法難ほうなんの地」と伝えられている、茨城県石岡市にある板敷いたじき山を訪ねた。常磐じょうばん 道・友部JCTから北関東自動車道を笠間方面に向かい、笠間かさま 西ICを出て県道64号(土浦・笠間線)を南下し土浦方面に向かこと約15分、桜川市今泉で、「板敷山道」と記された石碑の前を左折する。進むと間もなく、右側に「親鸞聖人法難之遺跡 板敷山」と記す石碑前に到着する。ここ板敷峠の空地に駐車する。

「板敷山山道」の石碑
板敷峠の「親鸞聖人法難之遺跡 板敷山」の石碑

板敷山の法難とは如何なことであったかは以下のように伝えられている。親鸞聖人が越後えちごの国より常陸ひたちの国に来られ、稲田いなだ草庵そうあんに滞在されていた折、聖人は稲田から南方の常陸の国へ、さらに南の鹿島神宮へ行くことも多かった。その時に板敷山を通って南下したりして、念仏の教えを広めるのが日課であった。一方、この地方には昔から、祈りによって病気や災難、不幸を除き、欲望を満たそうとする修験道しゅげんどうが盛んであった。弁円べんねんはこのあたりの修験者として多くの山伏を従えていた。聖人の説く念仏は、修験道とは相いれない仏の教えで、熱心な布教によって加持祈祷かじきとう(呪文をとなえて神仏にいのること)をたのむ人が減っていくことを、山伏たちは苦々しく思っていた。そこで、弁円は、聖人を殺そうと三日三晩護摩ごまいて懸命に念じたが、効き目はなかった。それならばと待ち伏せをし、暗殺を試みたがどうしても出会えなかった。

≪このこと、覚如かくにょ上人(本願寺第三世、親鸞聖人のひ孫)が制作された絵巻物『親鸞聖人伝絵でんね』(聖人の生涯における主要な出来事が、文章と絵で表されている)によれば、「弁円べんねんは板敷山中で待ち伏せしていたが、どうしても親鸞にあうことが出来なかった」≫と記されている。 そこで弁円は、刀杖を手にはさみ、自から聖人のいる稲田の草庵に押し入った。すると聖人は、ためらいなく弁円の前に出られたという。≪これも『親鸞聖人伝絵』よれば、訪れた弁円に対し、「聖人は何事もないように、ごく自然の態度で弁円に面会した。それを見た弁円は、親鸞を殺害しようという気持ちが忽ちなくなってしまい、その上、後悔の気持ちから湧き出す涙が止まらなかった」≫と記されている。

護摩壇跡

板敷山山頂にある、護摩を焚いた「護摩壇跡」へは、板敷山の石碑手前にある「護摩壇の遺跡登り口」の案内碑から、徒歩で右斜に狭い山道を上ると数分でたどり着く。そこには「山伏弁円護摩壇跡」と刻まれた石碑とともに、「護摩壇跡」が管理よく保存されている。今までに、親鸞聖人ゆかりの地を幾つか訪ねてはいるが、親鸞伝絵によっても史実に基づく遺跡が、今尚、大切に保存されていることに感動した。

板敷山頂にある「山伏弁円護摩壇跡」の石碑

さて、稲田で聖人と出会えた弁円べんねんは、回心懺悔して弟子となり、聖人から「明法」と法名を賜わった。聖人四十九歳、弁円四十二歳の秋であった。その後は、聖人とともに布教活動に各地を歩いた。明法房は二十四輩第十九番に数えられ、那珂市の上宮寺、常陸大宮市の法専寺を開基した。ある日弁円は、かつて護摩壇を築いて祈ったこの峠にさしかかった時、恥ずかしさと懺悔の念から、うずくまってしまったという。山頂から戻り、さらに板敷峠の右側に沿った狭い山道を徒歩で数十メート下ると、右側に『弁円懺悔の地』「山もやま 道もむかしにかわらねど かわりはてたる 我こころかな」と刻またれた石碑に着く。親鸞聖人が、当時、この同じ山道を何度となく往復された道を辿れることが不思議であった。

「弁円懺悔の地」の石碑

帰路、板敷山の南麓にある、聖人とゆかりの大覚寺にも参拝した。境内の案内板には持ち帰りできるよう、寺の縁起が備えられていた。縁起によると、「後鳥羽院の第三皇子正懐まさなり親王は、比叡山ひえいざんで出家し、週観大覚と名のられた。その後、東国行脚された時に、ここ板敷山の南麓に庵を結ばれた。その時に親鸞聖人が越後から常陸にこられており、笠間の稲田におられた聖人を訪れ、念仏の真意を聞信し、遂に子弟のみぎりを結び、善性房と名のられ、それ以来聖人に従って聞法して、聖人の教化をお助けされた」、とある。善性房は二十四輩第九番に数えられ、常総じょうそう石下いしげビ東弘とうこう寺の開基でもある。本堂を望む境内右には、親鸞聖人法難の遺跡の看板に並び、「親鸞聖人説法石」と刻まれた石碑がある。聖人は、この説法石にお座りになり、山伏弁円の弟子三十五名の山伏たちに念仏の教えをお説きになったという。

「親鸞聖人説法石」の石碑 右後方に説法石