2022年西念寺春季永代経 法話 本多雅人氏(葛飾区蓮光寺)
存在の尊さに目覚める
今日は「本願の祈り~存在の尊さに目覚める~」と題して資料を用意しましたので、これを読みながら解説していきます。
真宗の仏事は亡き人を偲びつつ、亡き人をご縁として、親鸞聖人が顕かにされた阿弥陀さんの本願念仏の教えに遇うことが要です。今日の永代経法要も亡き人が導いてくださったのです。この法要で、皆さんが、教えを聞き、身に響いてくださったなら、亡き人は喜んでくださるでしょう。これが本当の供養(讃嘆供養)です。法事を勤めることを通して、自分も死すべき身を生きていることを受け止めて、存在の尊さに目覚めて生きることが願われています。しかし、現代ほど存在の尊さを見失われた時代はありません。プーチンのウクライナ侵略は存在の尊さを完全に無視し、無差別に民衆を虐殺して世界中の多くの人たちが悲しみをいだいています。しかし、自分自身を見つめてみると『自分の存在は尊い』となかなか思えないのではないでしょうか。なぜでしょうか。
僕を含めて、現代の人達は自分が掛け替えのない存在だとなかなか思えないんです。生まれた時から、何が出来るかということで評価されてきていますから、存在に目を向けるということはほとんどない。そうやって僕たちは育ってきております。僕たちの生活の中で小さいことですけれども、自分の気に入らない人は排除したいでしょう。程度は違ったとしても、やっぱり排除したいんです。テレビ見てると、プーチンは酷いですね。僕もそう思うけども、僕たちも同じ心を持ってるんですよ。ああいうことは、さすがにしないけれども、近いようことはやっているわけです。
自我分別の正体
人間の思い(自我分別)は、自己中心で、他と比較し、どこまでも迷いの構造を持った差別社会です。平たく言うと、思い通りになったら幸せになれるという思い、そして思い通りになったら、生きる意味がある、ならなかったら意味がないといった、意味や価値を求めて生きることから逃れられないということです。特に経済至上主義の中で、生産性があれば生きる意味があり、それを失えば意味がないという風潮が誰の目にも多かれ少なかれ蔓延し、存在の尊さが捨象されているのではないでしょうか。どんな自分でも受け止められるということがないのです。大切なことは、思い通りにならないことが生きるということなのです。それを自覚せず、自分の思いに沈んではいないでしょうか。親鸞聖人は『本当に救われがたき身である』と教えてくださいます。
「人間の思い」よく使っている言葉ですが、自分の思いのことを「自我分別」と言います。分別は必ず分けてものを考える。都合がいいか、損か得か、善か悪か、この思考方法しかない。自分にとって都合の悪いものは排除し、都合のいいものを受け入れていけば、幸せになれると。自我分別の正体というのは、絶対に自分中心でしかものを見れない。自分を見ることがなくて、自分中心で外に目を向けているんですよ。だから、他人と比較するんです。比較というのは問題があります。ある人から「ウクライナの人達から見たら、私たちはまだまだ幸せなんだよ」って。これ比較でしょ。ウクライナの人達みたいにあの中で苦しんでも生きようとしている人達を見て、「私はだらしないな」と言うんだったら、これは教えになるんだけれども、「ウクライナの人に比べれば、まだまだ幸せなんだから、我慢しなさいよ。戦争が無い国なんだから、いいんじゃない」というふうになるとですね、完全に比較になる。それが差別に繋がってくるんですね。そういう構造を持っている。だから駄目なんじゃないんです。そこに「本願の祈り」ということが確立してくるんです。