2022年西念寺夏季永代経 法話 本多雅人氏(葛飾区蓮光寺)

おわりに

最後に用意した文章を読んで終ります。

生きることについて、意味づけや価値づけをせずにおれない迷い深い私たちの愚かさに気づきを与え、存在の尊さに目覚めさせるのが、親鸞聖人が明らかにされた阿弥陀さんの教えです。どんな自分でもかけがえのない存在であることは、私たちの思い(自我分別)からは出てきません。なぜなら、思い通りにならない時、生きる意味がないと落胆してしまう、そのことによって生まれたことすら意味がないと思ってしまうことが、私たちの相(すがた)ではないでしょうか。自分の存在を尊いとはなかなか思えないのです。「自分の存在を尊いと思えない本当に救われがたき身である」と親鸞聖人は教えてくださいます。ところが、「救われがたき身」と目覚めたということは、そのまま阿弥陀さんの救いにあずかることなのです。私たちは一生意味づけや価値づけからはなれることはできませんが、はなれられないままで、それを超えた無分別(そのまま、ありのまま、無条件)の阿弥陀さんの本願念仏の世界(浄土)が私たちの上に開かれてくるのです。自分の思い(自我分別)から解放されて、阿弥陀さんの眼で人生をみつめ直すという転換を通して、存在の尊さが回復していくのではないでしょうか。その要は、愚かな凡夫と目覚めることにあるのです。その如来からの呼びかけが聞こえてくるかどうか、一人ひとりの、そして全人類的課題なのです。

これは浄土真宗という宗派の問題ではなくて、全世界中の人に当てはまります。これからの時代、大きな問題が山積してますけれども、やはり一人ひとりが掛け替えのない存在として “いのち”をいただいている。多くの “いのち”に支えられて生かされている。その原点に帰っていくことが一番大事なことではないかなというふうに思います。(完)

この文章は、2021年8月17日に西念寺の夏季永代経でご法話いただいた内容を、西念寺のおしらせ編集委員が、独自に抜粋および編集したものです。そのため、掲載された内容等について、御講師へ直接問い合わせることはご遠慮くださいますようお願いいたします。<西念寺より>