2022年西念寺夏季永代経 法話 本多雅人氏(葛飾区蓮光寺)
意味を超えた世界
志慶眞さんというお医者さんの話ですが、死んでいく身をどういうふうに受け止めるかということで相当悩んで、最初、仏教なんか嫌いだと言ってたんだそうです。でも、奥さんがある仏教の会に入ったんですけど、自分も万策尽き果ててそこに入って、目覚めるんですね。
志慶眞先生の言葉です。
『分別(自我分別)を根拠にしなくてもいい世界が実はあったという、うなずき(気付き)が成立した時、分別を抱えたままで、それを超えた世界がその人の上に開かれるんです。分別自体が、実は分別を超えた無分別の世界に出遇う縁に転じていくんです。つまり、分別を超えた世界が私を支えているという、うなづきがあるから迷いながらでも安心して生きていけるんです。如来の呼びかけに出遇うことによって(目覚めをいただく)自分の思い、つまり「意味」を超えた世界が開かれるのです。私も長年、何が問題かということがわからないまま「意味」を求めて苦しんできました』。
皆、わからないですよ。何となくこの世の中というのは、相手に認められることが大事なんだと、そういうふうに思い込まされてるんです。生まれた時から何が出来るかというふうに、僕たちは育てられてきてるんですよ。「存在が尊いよ」ということは教えられてきていない。
『私も長年、何が問題かということがわからないまま「意味」を求めて苦しんできました。しかし、仏教にうなづくということは、意味を求める必要のない、そのままでいいという世界が開かれるということだったのです』。
そのまんま、今あるまんま、歳を取ったまんまに尊い。いただいた “いのち”を最後の最後まで。いつ死ぬかわからない。だから、今ここに尊さを感じて一日一日を丁寧に生きるということですね。