2021年西念寺春季永代経 法話 本多雅人氏(葛飾区蓮光寺)
“いのち”の海と波
そうすると、ちょっとイメージで考えて頂きたいんですが、皆さんがお母さんのお腹に宿る以前にもずっと“いのち”と“いのち”が繋がり合って、関係性を持ってずっと来て、何一つ無駄もなく来て、皆さんが1億円の宝くじを1万回連続当てて、生まれてきたわけですよ。その自分の生命の背景にある大きな“いのち”をちょっと深い大きな「海」だと思ってください。いろんな“いのち”が繋がり合って、関係しあってるんです。この海から生まれたってことは間違いないですね。最後はお父さんとお母さんが要になってますが、海から生まれたことは誰も否定できません。生命となったものを「波」と考えてください。海から生まれたんです。この海は永遠に、無限に存在します。これは仏教の言葉で言うと、「無量寿」と言うんです。どこかで聞いたことはありませんか。「正信偈」で親鸞聖人がお書きになった時の一番最初に言う言葉、「帰命無量寿如来」です。「帰命」というのは、「帰依します」「拠り所とします」「あなたに全てを託します」ということ。「無量寿如来」、この「無量寿」という世界は、海から出ると「波」が生まれ、この波の大きい小さいというのが寿命です。生まれた時に、健康な人も或いは病気がちの人もいるかもしれないし、障害を持った人もいるかもしれないけれども、全部、同じ「海」から生まれているので、この「海」は無条件にこの「波」を支えているんです。無条件。無条件というのは、言葉を変えると、「ありのまま」「そのまま」ということ。そういう特徴を持った大きな“いのち”なのです。
人間の根底の願い「本願」
亡くなるというのはどういうことかと言うと、この「波」が消えるわけでしょ。消えるってことは、元の海に還る。だから、浄土に支えられて、浄土に還って行くんです。還ったとしても、例えば、旦那さんはこの中に還ったって言いますけど、繋がってるんじゃないですか。だから、浄土に還ったけれども、ちゃんと私は亡くなった人と一緒。これを知った時に、人間はどんなに悲しくても、無条件に自分を支え、励ましてくれるような、そういう世界を持っていると、人間って生きて行けるんだなと思いました。
時間は掛かるけれども、今日の一周忌の人も、「住職さんからそういう話を聞いて、“そうだな、そうだな”って。お茶碗を洗ってる時も“そうだな、そうだな”って。寂しい気持ちは消えないけれども“そうだな、そうだな”って、一周忌を迎えました。たった息子と二人だけだったけど、本当に迎えられて良かった」と、そう言ってました。だから、こうやって自分を包んでくれるような世界を持っていたならば、絶対に人間って生きて行けるんですよ。そういう世界に出遇っていく。苦しみ、悲しみというのは生きてる証拠だと言うけれど、そうだとするならば、その苦しみ悲しみも超えて歩いて行けるような、人間はそういう励ましがほしいんです。そういう願いが人間の根底の願いなので、このことを「本願」と言うんです。
コロナ禍の中にあって、悲しい亡くなり方をして、会えなくて悲しんでいる人も皆、死に別れがどうであろうと、実は別れてなくて一緒じゃないかって。それから、ただ一緒じゃなくて、仏さんとして先立った人が、「死すべき“いのち”をどう生きるんだ」と、阿弥陀さんとの間に入って私を導いてくれてるって言うんですよ。そういう世界を持つということが凄く大事です。そんなことを感じるわけですね。
信心の世界は永遠
最後になりますが、これは僕の一番最初に出遇った恩師の先生の話です。たぶんもう会えないでしょうね。今、鹿児島に居て、今年97歳になりまして、介護5ですから。先生は耳が聞こえないので、「僕と信心談義をしましょう」と言って、お互いに紙に書いて「あなたは信心を戴いてますか」とか、いろいろやり取りした中で、先生が言ってくれたことを僕がメモをして纏めたのが、次の文章なんです。これは、今日の最後の言葉としたいと思います。
「私は95歳になりました。いつ死ぬか分かりませんが、間違いなく地獄行きです(笑)。でも、南無阿弥陀仏がありますから、何も怖いことなどありません。地獄に落ちてもご安心がありますからね。信心を戴いていますからね。ありがたいことです。南無阿弥陀仏はいのちの根源です。体の命はなくなっても、南無阿弥陀仏の呼びかけによって賜った信心の世界は永遠です。死んでも死なないということです」
私の生き方はいつも迷っている。私の考え方だけだったら、地獄が棲家なんだと。「私の在り方は地獄そのものである」ってことを知らせて頂けたってことは、地獄から解放されてるんです。私の在り方、私の考え方、生き方なんて、もう地獄そのものであると。私が地獄を作り出しているという自覚を持っているのだから、地獄はないでしょ。だから、笑ってるんですよ。私が迷ってるのは、私の正体だけれども、「南無阿弥陀仏」があるから、何も怖いことはないんだと。凡夫の自覚が徹底してるんですね。
おわりに
恩師の先生は「身体の命はなくなっても、南無阿弥陀仏の呼びかけによって賜った信心の世界は永遠です。死んでも死なないということです」とおっしゃる。だから、いつも一緒なんです。目の前に居てくれるのが一番いいんだけどね。また一緒に何かを食べさせてあげたいなとか、目の前に居てくれるのが一番いいんだけれども、どうしてもやっぱり寿命がありますから。でも、“一緒の世界”というのは、人間の思いを超えたところに真実としてちゃんとあるんだということです。このことを教えられて、悲しみの中から立ち上って生きていくという姿を、この真宗の仏事を通して、私自身が教えられた一年でありました。
どうか、皆さん、そのことを何となく何となく「そうだな」と思ったりする人もいれば、よく分からんと言う人もいたかもしれませんけれども、分かるとか分からないとかを超えて、何か大事だなと思ったら、是非この教えを聞き続けてください。それが、亡くなった人に対する大切な供養内容だと思います。(完)
この文章は、2021年4月18日に西念寺の春季永代経でご法話いただいた内容を、西念寺のおしらせ編集委員が、独自に抜粋および編集したものです。そのため、掲載された内容等について、御講師へ直接問い合わせることはご遠慮くださいますようお願いいたします。<西念寺より>
<編集後記>
1年以上経っても未だ収束しないコロナ禍の中で、今春の永代経法要は感染対策のため参詣者を制限し、午前と午後の部に分けて執行されました。今回は午後の部の法話を紹介させて頂きましたが、講師の本多先生からは今回特に、「御仏事の生活」を主題として、「亡くなった方とともに生きる生活とはどういうことか」について懇切に説いて頂きました。
他にも、「生死無常のことわり」、「“身より起こる病”と“心より起こる病”」、「信心を要とする葬儀」、「“穢れ”と“清め塩”」等々について、親鸞聖人のお言葉を引用・解説頂くなど、大変貴重なお話を沢山伺いましたが、紙面の関係で割愛させて頂きました。ご了承ください。(編集委員会)