2021年西念寺春季永代経 法話 本多雅人氏(葛飾区蓮光寺)

以下は、2021年4月18日に西念寺の春季永代経でご法話いただいた内容を、西念寺のおしらせ編集委員が、独自に抜粋および編集したものです。そのため、掲載された内容等について、御講師へ直接問い合わせることはご遠慮くださいますようお願いいたします。<西念寺より>

西念寺春季永代経で法話される本多雅人氏

はじめに

今日は西念寺様の永代経法要でありまして、この一年の間に大切な方を亡くされた方がお集まりになっていると聞いております。今、真宗の仏事が勤まるわけですけれども、仏事を勤めるということは、ただ亡くなった人を偲ぶんではなくて、亡くなった人の死を通して、悲しみを通して、実は私たちも亡くなっていく身であり、その亡くなっていく身をどう生きたらいいのかというようなご縁を亡くなった人が作ってくださっているんです。ですから、今日勤まって、仏事が終わるんじゃなくて、ここで皆さんが亡くなった人を偲びながら、教えられたこと、「そうだな」と思ったことを生活の中で生きる力にしていくことが大切です。そこで、今日のテーマは「御仏事の生活」、副題を「亡くなった方とともに生きる生活」と致しました。私たちは「亡くなった人はどこに行ったのか」と言う時に、「浄土にお還りになりました」という言葉を使います。「浄土に還った」ということと、「亡くなった人とともに一緒に生きて行く」ということとは、何か矛盾したような言葉に聞こえますが、この点は今日、はっきりしたいなと思います。

「真実の救い」とは

最初に、いつもこういう問題提起みたいな形で皆さんに投げ掛ける文章を書くんですが、ちょっとご紹介します。

真宗の仏事の要は亡き人を偲びつつ、亡き人を御縁として、死すべき身をどう生きるかという人生の根本問題を尋ねていくことです。真宗門徒はそのことを生活の中でいただき直す御仏事の生活を大切にしてきました。さて、この一年、さまざまなご門徒が亡くなられました。大切な方の死は深い悲しみを持ちますが、特にコロナ禍にあって、私のお寺でも、面会も許されず、ただ遺体と対面するのを待つご門徒、志村けんさんと同じように御遺骨を手渡されたご門徒がおられました。悲しみと悔しさに覆われながら、この不条理としか言いようのない厳しい現実をどう乗り越えて行かれたのか、それは阿弥陀さんからの呼びかけを聞かせていただくこと以外にありません。真実の救い(利益りやく)とは、自分の思いが適うことではなく、どんな状況でも生きて行く意欲をいただき続けることではないでしょうか。それが御仏事の生活の内実ではないでしょうか。

教えを聞くことを「聞法もんぽう」と言いますけれども、本当は「聞法もんぽう」と言うより「聞思もんし」なんですよ。この「聞思もんし」というのは、西念寺様で法要を勤めて、聞いたことを思うということ、生活の中で思い出すということです。生活の中で、きちっと教えが私の上にはたらいてくださっていることを私たちが実感していくことが大切であることから、今日ここに法要が勤まっているんだと。こういうふうに戴いたらいいんじゃないかなと思います。一般的には、ごがあるというと、自分の願いがかなうものだと考える人が多いんですけれども、願いが本当に適うんだったら、誰も苦労しないですよね。「ああ、もう駄目だ」と思った時に、「駄目ではない」という、そういう阿弥陀さんの教えによって、私たちは苦悩の中を生き抜いて行くことが出来る。これが、本当の利益ではないでしょうか。