2021年西念寺報恩講 法話 木名瀬勝氏(水戸市淨安寺所属僧侶)
根無し草の現代人
この身というのは、本当は全部繋がって生きてるはずなんです。子供時代だけでなく、今も「如」「アミター」という世界の中で私たちは生きてるんだけれども、その「アミター」という世界に「俺は」という壁を作って、閉じこもって、その中で「これが善い、悪い」って騒いで生きているということなんです。「あいつがいなかったら、もっと自分の人生はうまく行くのに」とかね。そういうふうに、人を全部切って、善い悪いで切って、世界も善い悪いで切って。そして、それが跳ね返って、自分も「ああ、こんな自分は駄目だ」とか、「生きてる意味はない」というふうに、裁いて裁いて、他人も自分も裁いて、閉じこもって生きている。
特に現代人はもう仏教の教えは聞けないから、私たちは「根無し草」というふうに喩えられますけど、フワフワと川を流れている草みたいなものですよ。「どっちに行ったらいいの」、「何が正しいの」と、根無し草だから不安なんです。若くて元気な時はいいですよ。ところが、大事な人を亡くして一人になって、身体も弱って来たとなると、もう毎日、不安でしょ。そして、「ああ、私なんてちっぽけな者は、死んだら泡のように消えちゃうんだ」ってね。これが、現代人の「私」しかない世界の恐ろしい生き方なんです。それが地獄なんです。私たちが本当にこの「私」という者の現実を見たら地獄ですよ。でも、現在は楽しいこととか、趣味とか、そういうことで何とか誤魔化していますが、「私」という者の正体というのは「孤独」だったんだということです。
自分自身の回復
「私」という者は、本当に「自分一人ぼっちの世界に生きているんだ」っていうことに気が付いた時、その時に「一人ぼっちの世界から、無量寿の世界に帰れ」っていう呼び声と、私の孤独が響き合うことが起こるんです。それが、歎異抄にある「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」という言葉です。普段から「南無阿弥陀仏」「帰れ」って、聞いてたんです。でも、この孤独である「私」って本当に悲しい生き方だなと思っている時、「帰れよ」っていう阿弥陀様の大悲というのが響き合った時に、「念仏もうさんとおもいたつこころのおこる」っていうことがあるんです。これが、真宗の教えの骨格なんです。
つまり、「私」という者の生き方は、そこだけだと「根無し草」だから、この身が世界と繋がりを取り戻して、全体が回復するんです。この「私」だけが私じゃなくてね、この身と世界が関係性を取り戻した時に初めて人間というのは完成するんです。立派な人間になるとか、そういうことじゃないんです。「自分自身を回復する」これが仏教の目的なんです。
おわりに
法然さんの言葉、「ただ、念仏して弥陀に救けられなさい」というのは、「自分自身の本当の存在の深いところから貴方に呼び掛けてる声、それが声となった仏様なんだ」ということに親鸞聖人は気付かれたんですね。ですから、この浄土真宗の教えは一つしかない。お念仏していくしかない。お念仏して行くことだけでいいんですよ。そして、「お念仏の謂れって何だろう」「何でお念仏するのか」ということをお寺の話を聞いたり、真宗聖典や正信偈を開いて確かめていくという生活、それが現代の仏道なんだと思います。(完)
この文章は、2021年4月18日に西念寺の春季永代経でご法話いただいた内容を、西念寺のおしらせ編集委員が、独自に抜粋および編集したものです。そのため、掲載された内容等について、御講師へ直接問い合わせることはご遠慮くださいますようお願いいたします。<西念寺より>
<編集後記>
今年の報恩講は昨年同様、参詣者を制限して開催されましたが、西念寺初の試みとして自宅のパソコンで視聴できるようZoom配信も行われました。今回の法話は講師ご自身が会社員から僧侶になられた経緯をはじめ、ご本尊の「阿弥陀如来」や名号の「南無阿弥陀仏」の由来や意味等について詳しく説いて頂きました。真宗では「何故お念仏を称えるのか」を改めて教えられた思いが致します。また、法話の後半にお釈迦様の有名な「天上天下唯我独尊」という言葉についても大変興味深いお話を伺いましたが、紙面の都合で割愛させて頂きました。ご了承ください。
(編集委員会)