2021年西念寺報恩講 法話 木名瀬勝氏(水戸市淨安寺所属僧侶)
阿弥陀様はどこに?
何が疑問になるかと言うと、「阿弥陀仏」「阿弥陀如来」というふうに聞いた時に、私は最初こう思いましたよ。「阿弥陀様ってどこに居るんですか」「本当に居るのか」って。今まで仏教の「縁起」とか、「空」の思想とかを聞いていた。そして「神様を立てないのが仏教だ」と聞いていたのに、「神様みたいなものを立てるのか」と、そこに躓きました。この「阿弥陀」という一字一字の漢字に意味はないんです。元々、これはインドの言葉なんです。インドの言葉で「a-mita〜(アミタ—)」という言葉をそのまま漢字に当てはめただけなんです。また、その「アミタ—」に関しては、他に「アミターユス」とか「アミターバ」という表現があります。それぞれ「無量寿」「無量光」と漢訳されています。つまり、「アミタ—」即ち「阿弥陀」という言葉は「無量。量ることが出来ない。人間の知識とか経験で考えることは出来ない」という意味であり、「人間の知識や想像力で、これが阿弥陀様だというふうに決めるな、決められないぞ」という名前の仏様なんですよ。では、どうしたらいいのか。
仏様は仏像?
そうすると、「仏様」って何だということですが、「阿弥陀仏」とも言うし、「阿弥陀如来」とも言います。ちょっと「如来」ということでお話した方が分かり易いと思いますが、「如来」というのはどういうことかと言いますと、これは「如」より来生せるものという意味なんです。「如」から来る、来られた。私の所に来てくださった存在という意味なんです。そうすると、私たちがすぐに思い浮かべてしまうのは、やはり仏像になってしまう。それでは話が進みません。仏像じゃないんです。私が声に出した時の「南無阿弥陀仏」という言葉、声が仏様なんです。法然と親鸞さまは言いましたよ、「仏像なんか造らなくていい」「来てるでしょ。ここに」と。私たちは仏像を思い浮かべて、ずっと勘違いしてたってことなんですよ。仏様を。仏様は声となって、生きた言葉になって来てくださっているんです。これをはっきりさせてくれたのに、段々段々、また私たちの考え方は仏像に戻ってしまう。
声となって来る仏様
声になった仏様、それが親鸞聖人が私たちに伝えたいことなんです。ここがハッキリしない限り、ずっと真宗の教えを聞いていても、モヤモヤモヤモヤというふうになってしまいます。「重誓名声聞十方」という言葉が正信偈の中にあります。浄土真宗の仏様というのは、この名声、名前となって、声となってくださったのが仏様です。この仏様が声となって導いてくれるってことなんです。最初は「南無阿弥陀仏」と言っても、腹は立つし、何かそれで心の変化が起こるわけじゃないんですね。「南無阿弥陀仏って何だろうな」って疑問が湧いてくる。何で「念仏しろ」って言うのかな。そうすると、その生活がもうそこで仏道になるんです。「何でだろう」「何で念仏しようとするんだろう」と思う。そうすると、念仏する理由は聞くしかない。仏さんが「私の名前を呼んでくれ」って、私に呼び掛けてくださるんですね。名前を呼んだら、私たちはそれを思い浮かべます。家族でも、亡くなって二度と会えない人でも、名前を呼んだら思い浮かべることが出来るんです。