2021年西念寺報恩講 法話 木名瀬勝氏(水戸市淨安寺所属僧侶)
以下は、2021年11月3日に西念寺の報恩講でご法話いただいた内容を、西念寺のおしらせ編集委員が、独自に抜粋および編集したものです。そのため、掲載された内容等について、御講師へ直接問い合わせることはご遠慮くださいますようお願いいたします。<西念寺より>
はじめに
今日は西念寺様の永代経法要でありまして、この一年の間に大切な方を亡くされた方がお集まりになっていると聞いております。今、真宗の仏事が勤まるわけですけれども、仏事を勤めるということは、ただ亡くなった人を偲ぶんではなくて、亡くなった人の死今日は報恩講のお参りにようこそおいで頂きました。先ほどの帰敬式に私も同席させて頂いて、京都の東本願寺に勤めていた時に帰敬式を受けられる方の姿を何百人と見てきましたが、そのことを思い出してとても嬉しく思いました。何故かと言うと、同じ法の友が出来た、釈迦ファミリーの一員がまた増えた、という意味で嬉しいのです。ですから、ご住職も坊守さんも「おめでとうございます」と言っておられました。そして「仏弟子の今日からがスタートですよ」という意味はどういうことかと言いますと、「仏弟子って何なのか、何をしなきゃいけないのか」ということなんですけれども、それは「私たちが何のために生まれて来たのか」ということ、それを見つけるためなんです。
真宗の教えとの出遇い
仏教というのは、現代の学問の言葉に直すと、「人間学」なんです。「人間とは何だろう」というのを、自分の体、自分の人生で実験して行くということなんです。他人の人生で実験しても何もなりませんからね。自分の人生を実験して、お釈迦様の言葉を頼りに「人間とは何だろう」「人間に生まれてきて、人間として死んで逝くというのはどういうことなのか」ということを確かめて行くんです。私も高校の頃から「自分は何のために生まれて来たんだろう」「何のために生きているんだろう」ということが分からなくなってしまって、その答えを求めていろいろな本を読んだり、座禅の真似ごとをしたり、教会に行ったりして、その答えをずっと探してきたんです。その後、30歳になって、親鸞聖人の教えに出遇ったんですが、初めてこの浄土真宗の教えに出遇った時にどう思ったかというところをお話したいと思います。
教えへの疑問
この浄土真宗の教えをもし一言で友達に説明するとしたら、「ただ念仏して弥陀に救けられなさい」という一言なんです。これは親鸞聖人の言葉というよりは、親鸞聖人が29歳の時、これからお師匠様になる法然上人に出遇った時に言われた言葉なんです。親鸞聖人は20年間、比叡山で修行された。厳しい修行をされてたそうです。その当時のあらゆる仏教を学んだ。ところが、そこで全部躓いてしまったんです。今までずっとインド、中国、そして平安時代通して日本に伝わっている仏教を全部、親鸞聖人は学んで、それを実践された。9歳から29歳の間ですよ。それを全部学んで修行されて最後に躓いて、全部お手上げになったしまった。「自分が求めているものが分らん」「何も得られない」、そうやって29歳の時に比叡山から下りられる。もう絶望ですね。そして、東山の吉水という所に居られた法然さんの下を訪ねます。「ただ念仏して弥陀に救けられなさい」とは、その時の言葉です。親鸞聖人はそこで「はい、わかりました」と言えたか。言えなかったんですよ。それから、また100日間かけて大問答をした。そして、100日目に「その通りです。南無阿弥陀仏」という言葉が出たんでしょうね。頭が下がって「南無阿弥陀仏」という声が出た。
私は30歳の時に「歎異抄」を読んで、初めてこの言葉を聞いた時に、「この仏教の教えは変じゃないか」と思ったんです。この仏教の教えは、「修行できない人のための教えではないか」とか、あるいは「昔の人なら信じたかもしれないけれども、現代人にとってはもう古い教えなんじゃないのかな」って、私は疑いました。その後、私は本山でちゃんと学び、大谷派教師という資格を取って、今では衣も着て、話をするようになりましたが、ずっとこの言葉を疑ったまま話をしていました。自信が持てなかったんです。本当にこれでいいのかなってね。ずっと疑いが残ったまま、私は30代、40代と過ごして、やっと最近になって、この言葉しかないというふうに思えるようになりましたし、友人に「仏教学びたいから座禅教えて」って言われても、「座禅は必要ないです」「念仏してください」って言えるわけです