2020年西念寺報恩講 法話 海法龍氏(横須賀市長願寺)
善悪の境界
私たちには安心・安全・安定ということをいつも思うような「善悪の境界」があるんです。善悪の境界。普段はあまり見えないんです。自分の身に危険が迫る。自分の身に何か危ういことが起こってくることになる。そういう時にこの善悪の境界がわーっと立ち上がって来るんですよ。意識するわけです。そして、「危険なものは来るな」というわけで排除していく。それで、自分たちの安心・安全・安定のためにやってること自体が結果として私たちにとって苦しい状況を作っていく。善悪の境界と言います。その善悪の境界を持った存在を「凡夫」と言うんですね。すべての人が持っているから、正信偈では「一切善悪凡夫人」というわけです。お正信偈の12ページ(赤本)にありますから、見ておいてください。それから、善悪の境界を作るような心を「煩悩」と言います。また、この煩悩のことを「分別心」と言います。善いことと悪いこと、自分の利益か不利益か、優れているか劣っているか、こうやって分別するわけですよ。それを善悪の境界、「分別心」と言うわけです。私たちの中に、この安心・安全・安定を脅かしたり、乱すものがもしあったら、それは私たちにとって自分の安心・安全・安定を脅かすものですから、異物ですよね。異物は特に吐き出すんですよ。だから、必ず排除するんです。
煩悩障眼雖不見
私たちの安心・安全・安定というのは、それでは見えるべきものが見えなくなるんですよ。だから、親鸞聖人は何と仰っているかと言うと、煩悩、つまり自分の善悪の価値観だけで生きるともう見えなくなる。「不見」とおっしゃった。見えなくなる。見えない。自然から私たちは支えられているのが見えない。開発することが一体どんな結果を招いているのか見えない。見えないんですよ。見えないから、「煩悩障眼雖不見」(
正信偈 29ページ)と仰る。「煩悩によって眼が遮られて見えてない」と言うんです。コロナでこういうふうになった現状を誰が生み出したのかということが見えてない。見えてない中で、コロナは私たちの敵だから、襲いかかって来るから、皆、攻撃してそれを撲滅しようという話じゃないですか。撲滅するために、どこかのお寺では法要までしてますよ。コロナウイルス退散法要とか、撲滅法要とか。祈祷ですね。自分たちに都合の悪いことを無くしてくれるような都合のいいものになっちゃってるわけです。その都合のいい悪いでやってる私たちの足元が一体何なのかということをいつも照らしてくださってるのがお経なんです。私たちが自分の安心・安全・安定を求めている限り見えない中で、結局は自分たちが傷ついて、自分たちが滅んでいくんです。だから、人間の将来はどうなっていくかと言うとね、きっと、そのまま行けばもう止められない。どうしたらいいのか。私たちは自らを滅ぼしていくようなものをもう一度見つめ直さなければならない。
おわりに
非常に危機的な状況の中で、変わっていく中で、私たちの生き方はどこに根差していくのか。私たちの暮らし方はどこに根差していたのか。安心・安全・安定、自分の思いの中に根差していたんじゃないか。実はその善悪の境界というところではなく、本来はその善悪の境界を越えた一人ひとりの善悪ではない「いのち」そのものの姿があるんじゃないか。本当はそれに私たちは身を寄せて行かなくちゃいけないんではないか。本来に帰って行かなくてはいけないんじゃないか。「人間の原点に帰って行く」ということが、この時代だからこそ願われていることではないかということですね。(完)
お願い:この文章は、2020年11月3日に西念寺でご法話いただいた内容を、西念寺のおしらせ編集委員が、独自に抜粋および編集したものです。そのため、掲載された内容等について、御講師へ直接問い合わせることはご遠慮くださいますようお願いいたします。<西念寺より>