2020年西念寺報恩講 法話 海法龍氏(横須賀市長願寺)  

以下は、2020年11月3日に西念寺でご法話いただいた内容を、西念寺のおしらせ編集委員が、独自に抜粋および編集したものです。そのため、掲載された内容等について、御講師へ直接問い合わせることはご遠慮くださいますようお願いいたします。<西念寺より>

法話される海法龍氏

はじめに

西念寺様には前ご住職がご住職だった頃に1回か2回ですね、ご縁をいただいております。そして、ご子息がご住職になられて3年ほど前からお誘いがありましたが、なかなか日程が合わず、今日やっとお約束が果たせたわけです。こういうコロナの現状ですので、どこのお寺様も今年の報恩講をどういうふうに迎えようか、どういうふうにお勤めしようかと随分悩まれたんですね。やっぱり一番多いのは、お寺のご住職、ご寺族だけでお勤めをするというお寺でが、都内ではすごく多いですね。あるいは、参詣者が沢山だと密になるということで、お寺のお役の方々が代表でお参りするとか、西念寺様のように人数を制限して事前に参加者を募るとか、そんなふうにしていらっしゃる所もあります。

報恩講の由来

やはりそこに何としても報恩講は勤めていかなければいけない、他の諸行事は仕方なく中止しなければならないという状況だけども、この報恩講だけは何とかお勤めしていこうという強い思いがあるわけです。何故かと言うと、真宗寺院というのは、この報恩講から始まっている、報恩講から真宗の寺院というのは建立されて来ているんです。親鸞聖人が亡くなってから毎年、毎年、法事が勤められてきましたが、親鸞聖人の33回忌の時に、この法事、仏事のことを「報恩講」と名付けていかれたわけであります。親鸞聖人の人生が終わったところから始まるんですね。終わったというところに大切な意味があります。終わることを通して親鸞聖人の生涯がどういう御生涯であったのか。親鸞聖人はどういう教えに遇われたのか。どういう生き方をされたのか。そしてそれをどういうふうに伝えて行かれたのか。その90年の御生涯に、残された方々が触れたわけですね。その教えは、やはり人間にとって、人生にとって掛け替えない教えだから、人々が本当の意味で救われていく教えだから、お釈迦様の仏教がインドから中国、そして日本に伝えられてきたように、これからもずっと相続されて行かなければならない。だから、この教えが後世に亘って相続されていくことを願われて、この報恩講は勤められてきたんです。

「仏事」「法事」とは

仏事というのは、死んだ人のために捧げるわけじゃないんですよ。亡くなった方を通して、残された私たちがその仏事を勤める中で、お釈迦様の教えに遇う。親鸞聖人が残された、書かれた「正信偈」「ご和讃」のを通して南無阿弥陀仏の御心に触れていく。その御心を戴いて、親鸞聖人の御生涯を尋ねていく中で、親鸞聖人のその生涯から自分達が問い掛けられている中で、その教えの言葉が足元から私たちを照らし、私たちをもう一度問い返してくる。そういう仏事であるんです。ですから、仏様の教えに遇う行事なんですね。それで仏事なんです。仏事、法事、同じことです。法事というと、普通、年回忌法要を法事と私たちは言ってますけれども、本当はあらゆるお参りを仏事と言うわけです。法事と言うわけです。お家のお内仏でのお参りも、お墓でのお参りも、もちろんお寺でのお参りもそうです、手を合わせて念仏申すということは、皆、仏事です。皆、それは法事です。仏様の教えに触れていく行事ということですね。