親鸞聖人のゆかりの地を訪ねて ー 喜八阿弥陀堂(茨城県小美玉市) ー
ご当主は、大切な品物を母屋にお持ちになると、畳の部屋にブルーシートを敷き、そこに三幅の貴重な掛け軸を並べて拝観できるように準備された。そして、写真は撮っても良いが、くれぐれも触らないようにと、にこやかに大切な注意点を述べられた。じっくりと拝観しながら、足台もお借りして写真を撮らせていただき、800年も前に聖人によって描かれたと伝えられているこれらの画像を身近にして、当時が一気に迫ってくる臨場感を覚えた。
また、所蔵している親鸞聖人や浄土真宗に関連した書籍なども見せていただき、以前お堂で御開帳された時の写真も拝見できた。ご開帳はされていないと伺った時には、拝観はできないのではと思ったが、このような形で親鸞聖人直筆の貴重なものを、超特別なはからいで拝観できたことには大感動であった。
さて、喜八阿弥陀堂の由来であるが(親鸞聖人史跡伝説伝承より)、鎌倉時代のこと、与八郎は幼子を二人残し連れ合いに先立たれてしまった。残された幼女は母恋しさに毎夜や泣き続けた。すると母の亡霊が夫与八郎の枕元へ毎夜現れ、悲しげに「この子を頼みます」と訴えるようになった。与八郎は神社仏閣に祈祷を頼んだがそのかいはなかった。困り果てているとき名僧が稲田にいることを聞きつけ、鹿島に向かわれるのにこの地を通る親鸞聖人を呼び止め、このことを話した。聖人は小石一俵分を墓前に集めておくように言った。後日、与八郎宅へ訪れた聖人はその小石に浄土三部経を書き、墓に埋めた。そして自ら筆をとり、阿弥陀如来など三幅の絵を下された。それからというもの、母の亡霊は現れなくなり、幼女もすくすくと成長したという。与八郎は念仏に出遭った喜びを忘れず名を喜八と改めたという。
阿弥陀堂の前の広場には、「親鸞聖人御腰掛石」がある。また、聖人が浄土三部経を書いて墓に埋めたといわれる場所(行方方面に行く道の途中)には、小川町(現小美玉市)指定「経塚」の案内板もあるとのこと。