心理臨床の活動を通して(住職)

感話をする西念寺住職(2024,6,15茨城一組同朋大会にて)

西念寺住職の感話(2024年 茨城一組同朋大会にて)

コロナの流行により、2019年以来、中断されていた茨城一組・同朋大会ですが、去る6月15日(土)、5年ぶりにつくば市・市民ホールとよさとにおいて開催されました。

今回は、江東区・因速寺の武田定光氏による講演に加え、2名から「感話」があり、このうちの1人は当西念寺の住職が担当しました。

今回特に、臨床心理士・公認心理師の資格を持ち心理カウンセラーとしても活動されている西念寺住職より、その経験を踏まえた貴重な話を紹介いただきました。せっかくの機会ですので、ご参考までに一部を抜粋し紹介させていただきます。

以下は、西念寺住職の感話の内容を、おしらせ編集委員が、独自に抜粋および編集したものです。そのため、掲載された内容等について、直接問い合わせることはご遠慮くださいますようお願いいたします。

(編集委員会)

弱さを感じるのは自然

私は寺の住職をしておりますけれども、心理学が専攻できる大学に進学し、卒業後は、寺と並行して、いくつかの心理関係の仕事をしています。現在は、週に数日ですが、スクールカウンセラーとして生徒や保護者の相談を受ける仕事を続けています。


まず、相談するという時に、心の中に起こって来ることを話してみたいと思います。私を含め誰もが、つらい時や弱ってしまう時はあると思うんですね。でも、それを誰かに打ち明けたり、相談するのって、それなりに勇気がいるのではないでしょうか。それは、私たちの心のどこかに「弱いことはよくない」、ましてやそれを「表に出すのが良くない」という思いがあるからなのかもしれません。しかし、本当に辛い時に「弱いなって」いうふうに感じるのは、自然なことだと思いますが、、つらいことと弱いことは簡単に結びつくものではないと思うのです。

学校生活での場合

例えば、学校について考えてみると、学校生活では、週に5日1日6時間くらい授業を受けて、そして自分が選んだわけではない同級生と上手くやって行くことが望まれます。この仕組みは、大抵の人はそれで何とかやって行けるだろう、という前提ででできています。


でも、実際には、その中には楽しく登校できている人もいれば、大変だなと毎日思いながらもなんとか通っている人もいるわけです。そんな中で、通えてた人が登校できなくなってくると、周囲から「学校に行くのは当然なのに甘えている」とか、「頑張る力が足りない」とか、「周りの人との関係を作る力が無い」とか言われたりします。つまり、その子に問題があるという目で見られやすいのです。本人も、「他の人が出来てるのに、自分が出来ないのは、自分が弱いからなんだ。自分が悪いんだ。駄目なんだ」と思ってしまいがちなんです。

多様性を認め合う大切さ

しかし、私たちというのは、生まれた瞬間から一人一人、特性も違うし、経験してきたこと、心と体に積み重なってきたものも違うんですね。一つの仕組みがしっくりこないというのは、その人の弱さの問題ではないと思うんです。あることに適応できない人を自己責任として切り捨てる発想は、社会の分断を促してしまうのではないでしょうか。多様性を認め合う大切さが問われているように思えます。

「関わり」の難しさ

人間は社会的な「繋がり」を求める存在だと言われています。関わり合うことで、安心や安らぎというのを感じる仕組みは、最近、人の神経レベルでも備わっていると考えられるようになってきています。「淋しい」という感情も人と繋がることを促す防衛本能だと言われています。


誰もが家庭、家族とか、学校、職場などで良い関係を築きたいと願っています。でも、関わりは、喜びや安らぎを感じるのと同時に、一緒に居るのに、何か自分だけ輪に入れていない感じがしたり、仲がこじれたりとか、苦しいこともあるという実感が皆さんもおありではないでしょうか。


私が関わってる高校でも孤立して登校が難しくなって、たとえ3年生でも学校を去る決断をする生徒も多いです。周囲に人がいるのに関われないという状況がどれほど辛いか、ということを示しているのだと思います。

「親子」の関わり

私たちにとって最初の社会は、親子です。ここにいる誰もが大きな影響を受けています。親目線で言うと、自分の子供が人前で良くない行動をすると、親は恥ずかしさを覚えますし、一方、子供がスポーツなどで活躍したり、有名な大学に進学したりすると、親たちは自分の価値も上がるように感じることがあるんですね。それは、繋がりが強いと、相手が自分の延長上にいるように感じやすいんですね。

でも、結びつきが強くても、子供は独立した存在なんです。親子で関係する時に、「私の子供」ではなくて、ただ「子供」である、「私の子育て」ではなくて、ただ「子育てである」というような捉え方が大事なのではないかと感じています。

人は理解を超えた存在

相談というのは、言葉を介して行うわけですが、気付かなかった視点を、言葉が与えてくれるということがあります。例えば、「あそこの旦那は酒癖が悪いから」みたいなことで済まされていたことが、アダルトチルドレンという言葉によって、家庭は暴力の場となることがあること、そして、家庭の機能不全が子供の成育に多大な影響を与えるということが浮かび上がってきたという歴史があります。DV(ドメスティック・バイオレンス)という言葉も一般化しました。


その後も、性の多様さや性的マイノリティを表すLGBTQ+エルジービーティーキュープラスという言葉の広まりによって、社会は多数派であることを前提にしがちであり、少数派への偏見や、少数派の方々が感じているつらさに気づかなくなりがちであることが示されました。発達障害などの言葉の広がりも、気付きを促し、多様性を考えていく切っ掛けとなっているわけです。


ただ、このような言葉は、「あの人は何々だから」というように、相手や自分にレッテルを貼って、それで理解したつもりになってしまうという危険もはらんでいます。一人一人は全て違っていて、一つの見方だけでその人全体を表現することはできません。そればかりか、どんな人も「人の理解を超えた存在」なのです。その上で、自分や相手を見つめ続ける、理解し続けようとすることを、これからも大切にしていきたいと思っております。(完)