西念寺のはじまり

阿弥陀如来座像(平安時代作)

西念寺は親鸞聖人の時代よりもさらに昔、飛鳥時代の聖徳太子の発願によって建立されたと伝えられています。当初は西念寺ではなく、聖徳寺と称していました。9世紀に最澄によって天台宗が開かれると、聖徳寺は奈良仏教を離れ、親鸞聖人が来られるまでの約400年間、天台宗の寺院でした。

平将門の「泣き鐘」伝説

西念寺のある茨城県坂東市には、平安時代に活躍した平将門ゆかりの場所や言い伝えが数多くあります。西念寺に関しても以下のような「泣き鐘」伝説があります。

鐘撞き堂

その昔、平将門の率いる兵卒集団が、この寺の境内にあった釣鐘を持ち出して陣鐘にしました。ある日、兵卒のひとりが、この鐘をつき鳴らすと、不思議なことにその鐘が、「辺田村恋し、辺田村恋し」と泣くように響きわたりました。兵卒たちの士気が上がらなくなってしまったため、将門は鐘を寺へ返したということです。

親鸞と西念坊の出遇い

さて、鎌倉時代初期である1201年、9歳から修行をしていた比叡山をくだった親鸞聖人は、京都の吉水で法然上人に出遇い浄土の教えに帰依されました。しかし、念仏門の勢力拡大を恐れた旧仏教界の訴えによって時の政府の弾圧を受け、越後の地(今の新潟県上越市)に流罪になりました。

西念寺本堂の親鸞聖人座像


一方、西念寺の開基である井上三郎貞親は、信州の一城主の家(今の長野県長野市、須坂市のあたり)に生まれました。しかし、父親を戦で亡くし、生きる意義を求めて越後に流罪中であった親鸞聖人を訪ね弟子となりました。そして、西念という法名を賜りました。
流罪から6年で罪が解かれた後、親鸞聖人はここ関東の人々に念仏の教えを伝えに来られました。西念房も同行し、武蔵の国野田に聞法道場を開きました。

西念坊と弟の再会

その当時、聖徳寺には西念房と同じく出家した弟の四郎義繁がいました。兄の縁で親鸞聖人の教えに遇い信証と法名を賜り、兄と力を合わせて聖徳寺を浄土真宗の教えを聞く道場としました。
親鸞聖人が約20年後に京都に戻られた後も、西念房は親鸞聖人の言葉に従い、この地で布教を続けました。親鸞聖人のひ孫である本願寺3代の覚如上人が関東に来られた際にも存命であった西念房は、関東におられた当時の親鸞聖人の様子を伝えられたと言われています。大変長寿で、1291年、108歳で亡くなりました。

西念寺に伝わる西念坊座像(鎌倉時代作)

聖徳寺から西念寺へ

1642年、本願寺14代の琢如は、聖徳寺を西念房ゆかりの寺として、寺号を西念寺と改めました。以降、廃仏毀釈等、幾多の苦難を経つつ、常に今を生きる人々のための教えを伝える聞法道場としての歴史を重ねています。

江戸時代・文化年間に描かれた西念寺絵図

歴史を物語る座像、聖人お手植えの松など

西念寺には、聖徳寺から西念寺に名前が変わる時まで御本尊として安置されていたと考えられる木造の阿弥陀如来座像(平安時代作・茨城県指定文化財)や、来迎図板碑(市指定文化財)などがあります。境内には聖徳太子の像が納められた太子堂、親鸞聖人お手植えの松(昭和50年代に松食い虫の被害で枯れ、今は同じ場所に孫の松が立っています)があります。また、本堂には、開基西念坊の座像(鎌倉時代作)が安置されています。おまいりに来られたときはぜひお手を合わせください。

太子堂