池田勇諦さんと三重県桑名市の思い出
野田市 O.T.
東京教区500ヶ寺をオンラインでつないだ「お待ち受け大会」、西念寺の広間にて参加しました。
この日の記念講演は同朋大学名誉教授の池田氏。以前にお会いしたのはいつのことだったかと振り返ってみると、2008年6月の茨城一組の同朋大会にて、講師としてお話をお聞きして以来で、実に14年ぶりのこと。今年88歳の勇諦さんは、昔と少しも変わらず、しっかりとした口調で話をされ、そのお元気そうなご様子を胸躍る気持ちで拝見しました。
<講演全体がYouTubeで改めて公開されましたのでご視聴ください>
おらがまちの勇諦さん
池田勇諦氏は三重県桑名市にある西恩寺の前住職です。浄土真宗のお寺の多い桑名市では、昔から休日、平日を問わず、あちこちのお寺で早朝から法話が行われています。街の中心部の『寺町通り』と呼ばれる通りから少し入った所に、東本願寺桑名別院本統寺があり、三重教区の教務所も兼ねています。ここではいろいろなお寺の住職を講師にした暁天講座が月に何回も開かれ、通称『ごぼうさん』と呼ばれて親しまれています。
桑名に住む人々は、好きな講座を選んで、あちこちのお寺に足を運んでは、お話を聞きます。中でも勇諦さんの法話は人気があり、そのお名前を知らない門徒さんはいないという程の存在で、同じ桑名市出身の私も、母から勇諦さんのお名前を良く聞かされました。まさに『桑名のまちの勇諦さん』です。
現在では、西恩寺での勇諦さんの同朋講座は、事前申し込みで抽選になるほどの大人気だそうで、勇諦さんの追っかけファンであった亡き母も、もし生きていたら、さぞかし驚いたことでしょう。
桑名市と浄土真宗の歴史
桑名に浄土真宗が多い歴史は、室町時代までさかのぼります。かつて、木曽三川(木曽川・揖斐川・長良川)の河口近くの長島(現在の桑名市長島)は、陸地から隔絶された地域でした。
1501年(<ruby>文亀<rt>ぶんき</rt></ruby>元年)その長島に、蓮如上人の六男・<ruby>蓮淳<rt>れんじゅん</rt></ruby>によって「<ruby>願証寺<rt>がんしょうじ</rt></ruby>」が創建されると、本願寺門徒が多く住むようになり、周辺には多くの寺院や道場が集合、本願寺門徒はやがて10万の大きな勢力に成長していきます。しかし、やがて、織田信長が天下統一を進める中で、以下のような悲しい歴史をたどることになります。
1570年 元亀元年 | 織田信長は、天下統一のためと称し、「石山本願寺」が位置する地域(現大阪城)を手に入れるべく、門主の<ruby>顕如<rt>けんにょ</rt></ruby>に土地の明け渡しを要求。理不尽な要求に長島の本願寺門徒にも、反信長の機運が高まる。 |
1571年 元亀2年 | 信長が敵対する浅井・朝倉に加担する比叡山延暦寺を焼き討ち。その後、長島を2度にわたり攻撃するが、反撃により敗退。 |
1574年 天正2年 | 信長が水軍を含む8万の兵で3度目の長島攻めを行う。長島方では食糧不足から餓死者が続出する。3ヶ月の籠城戦の後、門徒衆が立てこもる砦の周囲に柵を築いた上で火を点け、2万人が焼死する。 |
そして、今・・・
現在、桑名市長島には当時の面影はあまり残っていません。木曽三川に囲まれた「輪中」と呼ばれた中洲も、埋め立てによって様相が変わり、60年ほど前に温泉が湧き、今では「ナガシマスパーランド」や「なばなの里」などの施設ができ、桑名市を代表する一大観光地となっています。
長島の浄土真宗の要であった「願証寺」は、織田信長の死後、清州や長島、松阪他から再建の動きが起こり1634 年(寛永11年・江戸時代徳川家光の頃)に長島に再興されました。それが今も残り、私の母の実家のお手次寺でもあります。
痛ましい歴史を乗り越え、今も桑名ではたくさんの浄土真宗門徒が信仰を続けています。