坂東市に墜落したB29(終戦の日特集)

西念寺門徒 H.Y.

戦争に関する話は仏教には馴染ないかもしれませんが、個人の安寧と世界の平和を希求するのが仏教の真髄(涅槃)だと信じています。戦争の惨めさを経験した人も残り少なくなった今、私の体験した出来事をお伝えできればと思います。


終戦日が近づくと子供の頃の嫌な出来事が蘇ります。特に終戦の年の昭和20年、私が小学2年生の時には、戦争も激しくなり、敵の飛行機が毎日の様に飛来して勉強など出来る状態ではなく、空襲警報に怯える毎日でした。その様な日々の中で、終戦間際の夜に敵のB29爆撃機が撃墜された事は強く脳裏に残ってます。

当日は空襲警報中でした。午後9時頃だと思いますが、姉と2人で家の外に出たら南の空が真っ赤になっているのが見え恐怖を感じていたら、姉から「焼夷弾が東京に落されて燃えて居るのだ」と言われました。

姉は3月の東京大空襲で家が焼かれ実家に戻って居たので良く知っていました。暫くして南の方から日本軍の攻撃で被弾したらしい飛行機が、真っ赤に燃えながら、ゆっくりと上空に近づいて来ました。突然閃光が走り、周り一面が明るく照らされた瞬間、分裂して頭上に落下してきた3個の火の塊を目撃した時、恐怖に慄いた事が強く思い出されます

翌朝早く飛行機が落ちた場所に行ってみたら多くの人々がいて、アメリカ軍の29爆撃機だと言っていました。私は最初に2名の遺体と真っ黒に焼けた別の遺体を見ましたが、それほど恐怖感はなく、敵国の人だと思い哀れみも覚えませんでした。周りの人達が大きなプロペラが落ちていると言っていたので行つて触って見たら未だ熱さを感じました。

翌日に再度胴体の落ちた所に行ったら、沢山の残骸の近くにトラックに乗せられた米兵が2名いました。周りの人に聞いたらパラシュートで脱出した搭乗員との事でした。

午後だと思いますが学校に戻っていたら地域の消防団の方々が遺体を収容して学校の横の道を運んで行く姿がみえました。

以上が戦後80年近く経過しても鮮明に脳裏に残る悲しい思い出です。

現在の坂東市猫実(ねこざね)

後日、この出来事について詳細に調べたので参考に記載します。<pow(prisoner of war=戦争捕虜)研究会資料を参考>

撃墜機B29爆撃機
墜落日時1945年5月25日 (戦後GHQ発表)
墜落位置茨城県猿島郡神大実村猫実 (現:茨城県坂東市猫実)
所  属第58爆撃団第444爆撃軍 第677爆撃隊
攻撃目標東京市街地への焼夷弾の投下
墜落原因戦闘機攻撃 (横須賀海軍航空隊倉本十三上飛曹)
搭乗員11名

昭和20年5月23日(東京大空襲)に続けて第58爆撃団はその最後となる東京山の手大空襲と呼ばれる攻撃を敢行。464機を投入した。被害も1日の攻撃としては過去最大の26機のB29を喪失した。

その中の一機が埼玉県栗原町上空で横須賀海軍航空隊倉本十三上飛曹長操縦の月光(日本海軍複座式夜間戦闘機、偵察員は黒鳥四郎少尉)の攻撃を受け、茨城県坂東市猫実に墜落した。墜落機体から回収されたのは9遺体で神田山の延命院に埋葬され、パラシュート脱出した2名は古河憲兵分隊を経由して東部憲兵隊司令部に送致された。内技術軍曹は憲兵隊拘置場で容態悪化、東部軍付き軍医長見習士官(戦後GHQによる尋問をうけ自殺)により6月5日投薬処置され小石川陸軍墓地に埋葬された。もう一方のEdwad2等軍曹は戦後米国へ帰還した。