芽吹大橋 ー 架橋実現までのみちのりと、橋の名前の由来をたどる ー

文・撮影:野田市M.K.

吹にあるのに吹大橋?

西念寺の寺報「おしらせ」編集委員会で、坂東市と野田市をつなぐ「芽吹めふき大橋」の名前の由来について話題になった。芽吹大橋の左岸、野田市側一帯の地名は芽吹めふきではなく目吹めふきであるが橋の名は目吹大橋ではなく芽吹大橋である。そこで、橋の名前の由来を辿ってみようと、芽吹大橋の開通にかかわる経緯を調べてみた。

悲願の橋ができるまで

野田市のホームページの「野田の魅力を発見」のなかに『芽吹大橋の歴史 人々の願いが現実に』の記事があった。『河川に囲まれた野田市は、江戸時代、水運に恵まれ栄えましたが、明治時代以降、次第に河川による道路分断が陸上交通の妨げになりました。野田周辺の利根川に架かる道路橋は、古河こが栗橋くりはし間の「利根川橋」(大正13(1924)年完成)、取手・我孫子あびこ間の「大利根橋」(昭和5(1930)年完成)、関宿・境間の「境の船橋」(昭和7(1932)年完成)の3本のみでした。「船橋」は川面に並べた船の上に板を渡した構造のため、物資の大量輸送は「利根川橋」か「大利根橋」へ大きく迂回しないと利根川を渡れませんでした。このような交通条件を克服するため利根川への架橋かきょう運動が野田町で盛り上がり、昭和2年に利根架橋委員会が発足しました。しかし、渡し船で生活している船頭たちの反対や橋の位置を巡る対立から実現しませんでした。

続いて昭和6年に対岸の岩井町(後の岩井市、現坂東市)で架橋運動が起こりましたが、満州事変など軍備優先の世情で自然消滅し、3回目の架橋運動は、昭和18年の軍事架橋計画でしたが終戦により、またもや中止になりました。

4回目の架橋運動は昭和23年で、関係する町や村の賛同を得た「利根架橋期成同盟会」設立後、結成大会を開くまでに至り、さらに利根架橋をスローガンに掲げて立候補した戸邉織太郎が初代野田市長に当選すると、岩井町と共に期成同盟会の活動を進め、半年間で国や千葉・茨城の両県へ100回近く出向くなど、国会議員、県会議員を巻き込んだ結果、茨城県が有料橋梁として工事を昭和30年に実施できることになりました。

橋脚名

その後、昭和31年設立の日本道路公団が工事を引継ぎ、昭和33年12月23日に「芽吹大橋」は開通しました。』と記述さていた。開通式に式辞を行った岸道三(日本道路公団初代総裁)は、鈴木貫太郎内閣で総合計画局参与を務め終戦工作を務めた人物とのこと。開通の同日、東京では「東京タワー」の完工式が行われていたそうです。

“目吹”という地名 ー 千年前の出来事 ー

「のだ・せきやど物語」という書籍を見つけた。野田市目吹の地名に関して、目吹の由来が書かれている。

『永保三年(1083)の秋、奥州の豪族清原氏の内紛を鎮めるため、源義家が陸奥守となって国府の多賀城(宮城県)に向かいました。寛永元年(1087)清原武衛と家衛の兄弟は、金沢柵(秋田県)に立てこもって抵抗しました。義家軍には豪胆な武士が多く、攻撃を繰り返しましたが、柵の中から一斉に射かける弓矢でバタバタと倒れていきました。この時相模国(神奈川県)の鎌倉権五郎景正は、一人で柵の中に飛び込んで奮戦していましたが、敵将の鳥海弥三郎の放った矢で目を射られました。しかし、景正は矢を抜こうとせず弥三郎を追いかけて打ち取り、陣営に帰ってきました。その後、金沢柵は落城し武衛と家衛は打ち取られました。この合戦を『後三年の役』といいます。東北地方も平穏になり、源義家は寛治二年(1088)に任期が終わり京都に帰りました。

帰り道、景正は知行地の下総の館(権五郎景正は目吹城の城主であったとされる)に留まり、近くの池で目を洗って完治しました。この地は目吹という地名になり池は『権五郎目洗いの池』と呼ばれ、今も雑木林の中に水をたたえています。』と記述されている。因みにこの池は、筆者の家から約200mにある。

権五郎目洗いの池

“芽吹”はどこから

さて、本題の「芽吹大橋」の名前の由来であるが、前述の『芽吹大橋の歴史 人々の願いが現実に』の記事のなかに、『命名にあたっては、広く一般に公募し、多数の応募の中からこの橋が野田市目吹にあり、その昔の鎌倉権五郎景正の故事にちなんで目吹と同音である夢のある名の芽吹を採用したとのことであった』と記されている。「芽吹大橋」の名前の由来は、1000年も前の出来事にちなんで付けられた地名である目吹と深く関わっていることを改めて知ることができた。